明治の男と大正の女

 小生にとって大恩ある義父と義母夫婦のお話。

 

 父は明治45年2月29日生まれという、珍しい生まれ。

俺は4年に一つしか年を取らないから長生き出来る筈だと

云っていた。

 母は大正2年2月14日だから、9才年下。

 

 馴れ初めなどは尋ねたことも無いが、二人とも千葉県出身。

父は佐原市(今は香取市佐原)の生まれ。母は香取郡伊能

(今は成田市伊能)だが、東関道の大栄インターの近く。

 

 二人とも農家出身ではないが、生業が何だったかも訊いた

ことはない。

 

 とにかく、こちらから尋ねたことは皆無。多分、それは、

小生が一人っ子だから父母のほうから話しかけてくれたので、

尋ねる必要が感じられなかったか、小生がぼんやりで疑問を

抱かなかったからかもしれない。

 

 太平洋戦争末期までは、東京の麻布というところで、

恵まれた暮らしをしていた。

 

 父は佐原の尋常小学校という4年制の初等教育しか受けていない。

裕福な家なら、その上の高等小学校(確か3年)に行く。

更に、その上に旧制中学(5年制)がある。その上は東京の一高

第一高等学校)か、優秀なら中学から直接大学を受けられた。

中学は5年まであるが、4年で高等学校を受ける(飛び級とか

ジャンプとも云う)ことも出来たそうだ。

余談だがニューヨークで逢ったアルバイトの韓国人学生はハーバードに

飛び級で15才で入学したという。(専攻は数学と云っていた)

 

 父は18才まで佐原で薬屋に奉公。それから、つてがあって、東京の

円タク(今のタクシー)の会社に勤めた。当時はフォードとか

シボレーなどの米国車をタクシーに使っていた。今から見ると、

凄い高級車を使っていたものだ。料金は何処まで乗っても1円、

というのが円タクという名前のいわれらしい。お客は外人が多く、

横浜まで行くこともあった。英語は牧師さんに習ったそうだ。

父は器用で運転するだけではなく、メンテも自分でやったと

自慢していた。

 

 円タクの商売がすたれたのか、製氷会社の配達を任されて、

トラックで客先の軒先に大きな氷のブロックを運んでいき、

鋸でシャーシャーと必要なだけ切断して引き渡す。

 

 実は、小生は当時学校に上る前なので家の近所で遊んでいた。

それで、たびたび助手席に乗せて貰って、配達に付き合った。

(つづく)