1945年3月10日の東京大空襲から早くも75年。
自分は10才になったばかりだったし、お国の命令で地方に
疎開させられ、その夜の惨状は知るべくもなかった。
今、生き延びて、ネットで写真を見て、想いを
馳せるのみ。
焼失、帰京した同窓生は麻布小学校の半分を借りての授業。
運動場も半分であり、肩身の狭い思いをした。
その後、同窓生は近所の焼け残りの小学校に再配分され、
自分は南山小学校に編入された。(この学校は当時にしては
贅沢な鉄筋コンクリート造りで、大使館が多い高台にあった。)
戦争の記憶は終戦後の生活しか無い。
持ち主の分からない焼け跡に勝手に掘っ建て小屋
(当時はバラックと呼んだ)を建てて、物置にしたり、
焼け跡を片付けて畑をつくり、野菜を育てたり、
焼け跡で鉛管や鉄材などの金目のものを見つけ、
廃品業者に持って行って換金した。
お米は配給制で、通帳をお米屋に持って行って購入。
父親の吸う煙草は毎朝、子供の自分が(今からみるとおかしいが、
空き箱を持って煙草屋の前に並び、1日1箱(10本)だけ買えた。
最も異常だったのは、貯金があってもそのままでは使えず、
政府から支給されたシールを貼らないと使えなかった。
(買占めが出来ず、インフレ抑制策だったのだろう。)
子供だったから、深刻にはならなかったが、食糧難が
ひどかった。 列車で地方に買い出しに行って、時計とか
着物と物々交換で手に入れたお米が「闇米」(違法)として、
警察の摘発で没収された。
良い思い出としては、学校の給食に国連とかユニセフの
援助物資が配給され、肝油とかコーンビーフが美味しかった。
地球温暖化や政治・宗教による摩擦など、これまで同様に、
地球上の人類の解決力を信じたい。