2020-03-10 東京大空襲から75年

 1945年3月10日の東京大空襲から早くも75

 

 自分は10才になったばかりだったし、お国の命令で地方に

疎開させられ、その夜の惨状は知るべくもなかった。

 

 今、生き延びて、ネットで写真を見て、想いを

馳せるのみ。

 

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 8月15日の終戦で東京に帰ったが、母校の飯倉国民学校

焼失、帰京した同窓生は麻布小学校の半分を借りての授業。

運動場も半分であり、肩身の狭い思いをした。 

その後、同窓生は近所の焼け残りの小学校に再配分され、

自分は南山小学校に編入された。(この学校は当時にしては

贅沢な鉄筋コンクリート造りで、大使館が多い高台にあった。)

 

 戦争の記憶は終戦後の生活しか無い。

持ち主の分からない焼け跡に勝手に掘っ建て小屋

(当時はバラックと呼んだ)を建てて、物置にしたり、

焼け跡を片付けて畑をつくり、野菜を育てたり、

焼け跡で鉛管や鉄材などの金目のものを見つけ、

廃品業者に持って行って換金した。

 

 お米は配給制で、通帳をお米屋に持って行って購入。

父親の吸う煙草は毎朝、子供の自分が(今からみるとおかしいが、

空き箱を持って煙草屋の前に並び、1日1箱(10本)だけ買えた。

 

 最も異常だったのは、貯金があってもそのままでは使えず、

政府から支給されたシールを貼らないと使えなかった。

(買占めが出来ず、インフレ抑制策だったのだろう。)

 

 子供だったから、深刻にはならなかったが、食糧難が

ひどかった。 列車で地方に買い出しに行って、時計とか

着物と物々交換で手に入れたお米が「闇米」(違法)として、

警察の摘発で没収された。

 

 良い思い出としては、学校の給食に国連とかユニセフ

援助物資が配給され、肝油とかコーンビーフが美味しかった。

 

 コロナウイルスとか、地震・台風による災害も心配だが、

地球温暖化や政治・宗教による摩擦など、これまで同様に、

地球上の人類の解決力を信じたい。