明治男と大正女(続)

 太平洋戦争が熾烈になった頃なのに、父は戦争には行かなかった。

理由を聞くようなことはしなかった。小生は多感ではあったが鈍くも

あったから、疑問にも思わなかった。多分、年齢制限をオーバー

していたのだろう。

 

 親類で戦争に駆り出されて、戦死したのは一人だけ。

義理の叔父だが、輸送船でフィリピンに向かう途中、

米潜水艦に魚雷で撃沈されたという。

 

 もう一人の義理の叔父は満州憲兵だったらしいが、無事帰国、

千葉県警の巡査で駐在所勤務を重ね、最後は刑事になった。

利根川で釣りを楽しみながら世を去った。

 

 あと一人、伯母の三男が大陸に行ったらしいが、無事帰国、

佐原の町の郵便局に勤めた。

 

 まだ、もう一人いた。彼は義理の伯父の息子で予科練に取られ、

霞ヶ浦飛行場で訓練後、何故か自宅に返されて百姓に戻った。

お蔭で、終戦直前の1年間、小生が縁故疎開で同家に寄宿したとき、

兄の如く可愛がってくれて、沢山の事を教えてくれた。

 

 父が戦争に行かなかったから、いろんな話が聞けた。

然し、若い時に薬屋に奉公し、薬の効き目を確かめたくて、いろんな

薬を飲んだせいか、アルコールが効かない体になったとかで、沖縄の

泡盛を飲んでも酔えなくて、胃腸を痛めてしまったと云っていた。

結局、胃癌になって、仕事が出来ず、63才で世を去った。

 

 母は若い時は田舎の豪農の家に姉妹と一緒に引き取られ、お針子とか

女中奉公をしていたそうだ。神経が太くて社交的で、父が病で倒れた後は、

親類から借金をして家をリフォームし、貸店舗や間貸しのほか、下宿人を

置いて、家計を支えた。

 

 父が世を去ったら、これからは近所の人達と温泉に行けると、楽しみに

していた。然し、運命の悪戯か、破傷風で父の百か日の前に、あっけなく

逝ってしまった。享年54才。

 

 みんなは父が連れて行ったのだ、夫婦仲の良い見本だと慰めてくれた。

風邪をこじらしたような症状で病院に行ったのが金曜日の夜で、当直医

しかいなかった。血液検査もされず、次の月曜日に発見したから手遅れに

なったのだそうだ。

 

 世の中はなるようにしかならないし、小生と家族は、この父と母の

お蔭で幸せな人生を歩めている。我々の感謝の気持ちは二人の霊に

届いている筈である。